比護健人と取越茜のお話


「あっれえー!!トムだぁ!!久しぶりだねぇー」

どこに行くわけでもなく校舎内をフラついていると間延びした声が聞こえた。

「おー茜か!!元気か?相変わらず花が飛んでそうな喋り方だな」
「ううーん、トム言ってる事難しくてわかんないよー」

へらへらと笑う彼女は2年の取越茜。
俺よりも破天荒な部活荒らしとして入学当初から有名だった。
案の定、俺が部長だった美術部にも顔を出し、
絵の具や水バケツをあれよあれよと言う間にひっくり返して歩き、
次の日は一日中掃除、なんてこともあったが、今になっては良い思い出だ。

「おおーんそうだ!!トム、はりたん見なかったー??」
「はりたん?」
「はりたんだよーどこいったんだろー次体育なのになー」

茜は人を、自分がつけたニックネームで呼ぶ習慣があり、
時にそれは、その人を連想する事ができない物もある。
俺もその一人。トムって…つーか、はりたん??
俺に聞くくらいだからもちろん俺が知ってる人間だろうけど、
『はり』なんて、いたか?

「はりたんじゃわかんねーって。フルネームは?」
「んあ?ああ、そっか!!ええっと、はりたんは、えっと、結衣ちゃん!!」

ふと春樹の顔が浮かんでまた口元がにやっとする。
どいつもこいつも結衣ちゃん結衣ちゃんだな。
まあ、かわいいのは認めるけど。俺にとっては妹みたいな感じで。
だからあの子を取り巻く環境は、見ていて面白い。
引き寄せられるみたいに問題ありそうなやつばっかり周りに集まってる。
あの子には安定剤みたいな作用があるんだろうか。

「結衣ちゃんな、見てねーよ。つーかなんで『はりたん』なんてあだ名なんだ?『は』も『り』も入ってないだろ」

茜もなんだか少しだけ落ち着いた気がする。気がするだけだけど。
これも結衣ちゃん効果か?
そんな茜はへらっと笑って「よくぞ聞いてくれた」という顔をした。

「はりたんって、透き通ってるでしょ?」
「は?」

いや、透き通ってはいないと思うが。現に見えているわけだし。
頭の上に疑問符をたくさん並べていると、茜はふふんと満足そうな顔をした。

「純粋無垢って感じがするなぁって、初めてあったときにおもったんだー」

初めてあった時を思い出したのか、茜はいつもとはまた違う、ふにゃっとした顔で笑った。
そうだ、結衣ちゃんの話をしているやつは、みんなこうだ。
いままで一緒にいたときには、見せなかったような顔をする。
茜も、春樹も。これもあの子の不思議な力?

「その頃、ママがパワーストーンにハマってて、だからね水晶の昔の呼び方の『玻璃』からとって、『はりたん』!!」

どうだと言わんばかりに反り返る。「はりたんのあだ名はね、すっごい考えたんだよー」と言ってまた笑った。

こんなに人を変える力があるんだろうか。
幸せにできる力。それを、茜を通して感じる。
俺から見た結衣ちゃんは、しっかりしてて、だけどどこか抜けてて、
見ていてちょっと心配になるような子。
まあ、なにごとも前向きで、懸命に取り組む姿は見ていて飽きないけど。

人を引き寄せる力があって、人を変える力がある。
だから少しだけ彼女が眩しいんだろうか。
そして時々強い光を見た時のように、いつまでも目から消えない。
そしてまた、俺の前から急に消えていくんだろうか。
あいつのように。

ふいに鐘の音がする。学生を憂鬱にさせる音だ、授業開始の合図。

「うわああああああ!!始まっちゃった!!トム!!ばいばーい!!授業いってくるよー」

慌ただしく手足をばたつかせた後、慌ただしく走っていく茜を静かに見送った。

また思い出してしまった。たまにこうして思い出しては、身体が裂かれるような痛みを味わう。
透明で、まっすぐで、いつも頑張ってて。
それが無理していたってことにも気がつけなくて。俺は。

苦しくなってきて下を向いた。そこには、覗き込むようにしてこちらを見ている茜の顔があった。

「うっわ!!!!」
「トム大丈夫?お腹痛いの?」

さっき走っていったのは俺の気のせいだったのか!?

「吃驚した、どうした?なんか忘れ物か?」
「ううん違うよー。はりたんいたよーって言いにきたの」
「へ?」

結衣ちゃんのあだ名を聞いて、なぜかふわっと身体が軽くなった。
ちりちりした痛みはまだ少し残っている気がしたが、それも和らいでいる気がする。
でもなんでまた、わざわざそんなこと言いに。

「トムすっごく不安そうな顔してたから、はりたん無事だったよーって言いたくてねー」

それだけ言うと、彼女は「はう!!先生にトイレって言ってきたんだ!!おこられるうー!!」と叫び、
またグラウンドに向けて走っていった。

茜の姿が視界から消えると、身体の力が抜けたようになり、
気がつくとその場にしゃがみ込んでいた。
心のどこかで、このまま見つからないなら、あの子を探しにいかないと、と思っていた自分がいた。

結衣ちゃんが無事だったなんて、たったそれだけなのに、こんなに安心できるもんなのか。

「            よかった」

俺は長く息を吐いて立ち上がった。
みんなから愛される結衣ちゃん、俺のかわいい妹みたいな子。
もう失わないように。できるだけ守っていこうと、頭の中で何度か繰り返した。