宮園千里と鳴海珊瑚の話
畳の匂いと、かすかに香る植物の青い匂い。
心が落ち着くのと同時に、いつも少しだけ身体が重くなる気がする。
あの家にいる限り、一生背負っていかなければいけないもの。
(重たい、なんて言ってられませんね)
弱音を吐くのはみっともない。これは父が言っていた言葉だったろうか。
華道部用に与えられている和室の戸をゆっくり開くと、
そこにはすでに人影があった。
「鳴海さん、早いですね」
彼女はくるりと向きを変えると、不機嫌そうな顔に無理矢理笑みを作って
「宮園先輩も早いんですね」
とだけ言ってまた花の準備を始めた。
彼女は新しく入ってきた部員。慎也と知り合いで、慎也に好意を持っている。
入って間もない頃、慎也と同じクラスだと言ったらいろいろなことを聞かれ、聞かされた。
そして彼女が不機嫌な顔をしている時は大抵その慎也に関わる事だという事も段々とわかってきた。
「水揚げが雑ですね。それでは逆に花が痛んでしまいますよ」
瞬間少しだけ揺れる肩。眉間に皺が寄る。
彼女が言いたい事を飲み込むのを、私も水揚げしながら気配で感じた。
鳴海さんが、私の前ではできる限り大人しく振る舞おうと努力している事を知っている。
気持ちを押し殺す意味が、私にはわからない。もったいない。
私から彼女のことを慎也に話す事なんてきっとないのだから、
私の前で無理をするのは全くの無意味なのに。無理をしなければいいのに。
作業をやめる。このままでは集中力にかける。
「華には心が映ります。このまま進めても良い作品はできませんよ」
「……いいです別に。宮園先輩みたいに真剣にやってないですから」
「あなたは良くても、私は迷惑です。何があったか話せば楽になるのなら、言ったらどうですか?」
そう。別に、鳴海さんに良い作品を作りなさいと言っているわけではない。
この華道部自体、真剣に取り組んでいるのは私だけだということもわかっている。
でも私は、環境に左右されやすい。特に今日の私は花に集中できていない。
私の作業にも影響がでるのだ。
周りを切り離すように集中できる千草のようにはいかない。
そこではっとした。また、くだらない事を考えていた。
千草と私が違うのは当たり前なのに。
千里も努力すれば大丈夫よ。これは、母が言った言葉だった気がする。
「 ーんで」
微かに聞こえた声に意識を傾ける。
その声は震えているようで、すごく細い声だった。
「なんで、 あの人ばっかり……」
あの人、とはきっと、水野さんのことだろう。
鳴海さんは、何故か彼女に異常なまでの敵対心を持っている。
何度か茜が慎也を呼びにきていた。きっとその度に騒ぎを起こしているのだろう。
水野さんが終始困った顔をしているのが目に浮かぶ。
何事にもまっすぐで、笑顔が花のような人。
慎也が惹かれていると思うのも無理はないし、
鳴海さんがそれを面白くないと思うのも無理はない。
私の前で無理をしたり、彼女に毛を逆立てるほど、慎也の事が好きなんだろうから。
慎也は鳴海さんの気持ちをわかっていて流しているような所がある。
誰彼かまわず優しい顔をするから、こういうことになるんだと、後で言っておかないと。
「水野さんばかり、というより、慎也に関しては誰に対してもというのが正しいかと」
それを聞くと彼女は俯いていた視線を勢いよくこちらに向けた。心なしか目には涙が溜まっているように見える。
「違う!!他の人とは違う!!慎也が、楽しそうだもん」
そう言われるとそんな気もする。意識して見た事はないけれど、確かに雰囲気が違うような。
「私が、どれだけ頑張っても、慎也は振り向いてくれないのに……何が足りないのよ」
吐き捨てるようにつぶやくと悲しそうに視線をおろした。
重症だなと思うのと同時に口からため息が漏れた。
「めんどうですね」
「な、」
思った事がすぐに口にでるこの性格は、時に人を傷つけるらしい。
それを現すかのように鳴海さんの目が揺れた。
最近はそれがわかるようになった。ふと口にした言葉に、水野さんが少しだけ、悲しそうな顔をして笑うから。
それを見るのがすごく嫌で、彼女の前では私の頭も少しだけブレーキをかけるようになったのだ。
家で、父や母、千草に対してのそれとは違う、もっと、柔らかいなにか。
感情を殺すのではなく、もっと、良い言い方があるのではないかと模索するような感覚。
それがすごく心地いい。
彼女の笑顔を思い浮かべ、自然と自分の顔にも笑みが浮かぶ。
「いえ、言い方が悪かったですね。すみません。ですがそれは慎也に直接言ったらどうですか」
「でも」
「あなたの努力、慎也もまったくわかっていないわけではないと思いますよ。悲観する時間があるのなら、もっと努力を重ねたらいい」
「宮園先輩…」
「それが嫌なら、もう諦めたほうがいい、と私は思います」
「………はい、私、もう少し頑張ります!!」
彼女が花を手に取る。水揚げの作業がついさっきまでとは比べ物にならないほど丁寧になっていた。
私も自分の作業に戻ろうと花に手をかけたところで声をかけられる。
「先輩」
「はい、何か」
すでに彼女はいつものような、少し強気な笑みを浮かべていた。
「先輩も早く水野結衣をなんとかしてくださいね」
「…………どういう意味ですか?」
茜といい、鳴海さんといい、今日はよくわからないことを言う人が多い。
確かに彼女は魅力的な人物ではあるが、私がどうこうという話とはまた別だ。
「そういう意味です」
「鳴海さん、集中しないなら帰っていただいて結構ですよ」
「嫌です、今日は慎也も部活なんで、それを待つ間真剣にやるって今決めたんです」
「ではぜひ『真剣に』作業をしてください」
「はい!」
いそいそと作業に戻る彼女を見ながらため息がこぼれる。
それと同時に彼女の言葉で水野さんを思い出してまた笑みがこぼれた。
花を手に取り作業に戻る。
今日はいつもより落ち着いて作業ができるような気がした。