真野慎也と月波郁の話
あてもなく廊下を歩いていた。
珊瑚に強く当たってしまった手前、戻るわけにもいかない。
きっと一人で泣いている。
施設にいたころからずっとそうだった。
周りにキツく当たっては、怒られて、そして一人で泣くような子だった。
ふう、と短く息を吐くとなんだか冷静になって、
ああ、言いすぎたかもしれないなとぼんやり思った。
可愛く着飾ったり、優しい言葉で表面を塗り固めているような人より、
珊瑚はずっとずっとまっすぐだ。
俺のことが好きだって、わかる。
そんな考えが浮かんで、自重気味に笑みをこぼした。
今の俺の考えこそ、嘘だったからだ。
俺のことが好きかなんて、わからない。
いつまでたっても人の気持ちなんてわからない。わかりたくない。
だから俺は、「彼女」に懐柔されていく自分が、まる別の人間のことのように思えて吐き気がした。
そろそろ珊瑚は帰っただろうか、泣き止んだだろうか。
沈んでいく西日に落ちる自分の影を追いかけるように歩き続ける。
俺も、そろそろ帰ろうか。
「あら、真野くん?」
影を見ながら歩いていたせいか、まったく気がつかなかったその声の主は、彼女の友達だ。
「月波さん、こんばんは」
ふわふわと笑いながら「こんばんは。真野くんも遅いですね、部活ですか?」と問う彼女の手には、鞄が2つ。
おそらく彼女のものと、もうひとつも、見慣れた鞄だった。
「その鞄、水野さんのだよね。彼女、どうかしたの?」
月波さんは少しだけ驚いた顔をして、そして小さく笑って「はい」と答えた。
いったい何に笑ったのかまではわからなかった。可笑しなことを言っただろうか。
「それが、生徒会室に鞄を置いたまま、行方不明なんですよ」
「もう下校時刻なのに、見つからないの?」
「ええ、結衣ちゃんは高校生にもなって迷子なんです」
それはなんというか、実に彼女らしいと思った。
きっと、高瀬会長達の仕事を手伝っているうちに、何かを見つけて、
そしてそれが気になってどこかに行ってしまったんだろう。
帰る時間も忘れて、何かに集中しているに違いない。
こうと決めたらまっすぐでぶれない。
それでいて、人に合わせるのが上手くて…
ああまたこうして、彼女のことを信じようとして、
まっすぐに向かってくる彼女を、まっすぐ受け止めようとして、
そうしてもう一人がストップをかける。
(吐きそうだから、そういうのやめてくれないか)
「真野くんも、迷子ですか?」
「え?」
1人考え事をしていると、月波さんの目がゆるりと俺を映していた。
ひどい顔をしているな、と自分でも思った。
これではまるで、本当に迷子みたいだ。
「あまり考えすぎるのは、窮屈でよくない、と、姉が言っていました」
「はは、ありがとう、ちょっと寝不足気味で」
困ったような顔をしてみせたのに、月波さんの目に俺は映ったままだった。
まっすぐなその目がどこか彼女を連想させていけない。
この目は、苦手だ。
「あーっと……水野さん、俺も探そうか?」
「いえ、会長も高瀬くんも探しているので、きっとそのうち見つかると思います」
「そっか、じゃあ、俺はこれで。月波さんも、遅くならないうちに帰るようにね。気をつけて」
「はい。真野くんも、今日は早めにお休みになると良いと思いますよ」
「努力するよ」
月波さんの横をすり抜けて、再び影を見ながら歩き出した。
月波さんの目も、彼女の影も、なるべく早く俺の頭から消えれば良いのに。
彼女に懐柔されている俺も、早く消えれば良いのに。
まだそう思える自分に安堵しながら、俺は影を追い続けた。